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閑居老人独語62

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05 /27 2020
 来月7日に予定されている埼玉県少年少女囲碁協会の理事会・総会の案内と議案書が届いた。「今年度は会員の皆さまの安全確保の観点から、できるだけ文書によるご参加をお願いします」との一文も付されていた。電車に乗って出かけるのはまだ怖いですよね。
 県連総会は先にお知らせした通り7月21日(火)の予定です。状況は不確定の要素もありますので、通知等はもう少し様子を見ながら発送いたします。
 河北新報一力遼記者のデビュー記事を読んだ。「囲碁界の現況を私の目を通してお伝えしたい」と前置きし、「4月8日から対局延期」「SNSで魅力を発信する棋士も」「「国際線はネット対局が増加か」「対面対局の緊張感が恋しい」との小見出しを付した記事がつづく。最後は「今の状況は囲碁の勉強という観点ならあまり不便はないですが、手合いがないと生活にメリハリが生まれず、2ヵ月ほど対面で対局する機会がなかったことで改めてその存在の大きさを感じました」と結ばれていた。

 閑居のつれづれに始めたこの「独語」、いつの間にか2か月を超えた。まったく生産的ではない駄文綴りとはいえ、散歩と読書のほかにすることのない自粛生活の楽しみにいつしかなっていた。
 三たび柴田宵曲の「明治の話題」から。「午砲」という項があり、次の句が紹介されていた。
  雲の峰に響きてかへる午砲かな―虚子
  やゝありて午砲気付きぬ森のどか―雉子郎 
 午砲とは読んで字のごとく、大砲をドンと鳴らして正午を知らせたもの。東京では明治4年に始まり、昭和4年にサイレンに変わるまで続いた。明治文学には「どん」の俗称とともにしばしば登場する。今は皇居東御苑の本丸跡庭園に「午砲台跡」と記した小さな石碑があるのみ。江戸・東京散歩の際、これも確かに見た。役目を終えた砲はいま、江戸東京たてもの園に保管、展示されているという。
 これを取り上げたのは「雉子郎」(きじろう)という作者に注目したかったからだ。
 実は、コロナ禍の自粛生活に入ってからの新たな散歩コースの途中に雉子郎句碑を見出していた。忍川の船着き場跡碑のある一角に小公園があり、樹木に覆われてひっそりと建っていた。
  此の巨犬幾人雪に救ひけむ
 車で何度も通っているが、まったく気づいてなかた。地元の俳句連盟が半世紀以上前に建てたことが碑陰に刻まれていた。雉子郎とは行田市出身の俳人・石島雉子郎。明治20年生まれ、熊谷中3年終了時に家業を手伝うために中退。生家は大きな靑縞問屋。年上の甥・郁太郎・薇山は田山花袋の「田舎教師」にも「行田文学」を中心となって発刊したとして登場する。
 俳句は高浜虚子に師事し、ホトトギスでも活躍した。明治37年には、同郷の川島奇北らと俳句雑誌「浮城」を創刊したという。後にはキリスト教の宣教師として各地に赴くなかで佳句を残した。「雉子郎句集」にある次の句は代表作といわれている。
  兵役の無き民族や月の秋
 吉屋信子の「底の抜けた柄杓―憂愁の俳人たち」にも描かれている。
 浦和を拠点に活動した俳人・長谷川かな女は、夫・零余子の友人だった雉子郎の勧めで俳句を始めたという。
 なお吉川英治の俳号も雉子郎だとか。
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