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閑居老人独語61

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05 /26 2020
 このところ恒例となった埼玉新聞囲碁欄掲載譜を検討するテレワークの第3弾は、昭和31年の関東甲信越静大会の菊池―森崎戦、同44年の埼玉名人戦の竹本―福岡戦の2局。福岡さん20歳の県大会初優勝譜だ。合わせて4時間。疲れたが、仕事をしたという実感を伴う充実した時間だった。
 緊急事態宣言の解除を受けて、6月1日からプロの公式戦対局を再開する旨が発表された。延期されていた十段戦の日程も決まった。第3局が6月17日、第4局が同26日、日本棋院で行われる。第5局は7月3日、関西棋院。
 一方、アマの大会では高知総文の囲碁・将棋が中止になったという情報も入ってきた。

 緊急事態宣言が解除されたとはいえ、自粛生活はまだまだ続く。学校はそろそろ再開に向かっている。それにしても深谷の中学校で、登校時には「アベノマスク着用」という通知プリントを生徒に配布したというニュースにはさすがにあきれた。
 柴田宵曲の「明治風物誌」には「碁」という項目があり、大久保甲東(利通)や犬養木堂の碁をめぐるエピソードが紹介されている。
 まず「大久保の碁は相当強かったらしい」と始まる。当時、素人初段となって得意だった千葉県令の柴原和がたまたま手合わせすることになったとき、甲東がのっけから「2、3目置け」という。柴原は「この道にかけてはいかに閣下の仰せでも譲り申すわけにはいかぬ」と争った末、柴原が黒を持って対局してみると2、3局続けて負けてしまった。甲東は有段者でも何でもなかったが、実力はだいぶ上だったらしい。それだけの腕前だから、碁が好きだったことは確か。あまり碁を打つと身体に障ると心配する者があり、松方正義が代表として忠告に行ったが、「私は碁が打てなければ死んでしまひます」という一言で退けられたと、牧野伸顕の「回顧録」にあるという。大久保が暗殺されたのは明治11年だからそれ以前のことになる。碁が打てなくなったのはさぞかし無念だったろう。
 犬養木堂はあるとき、大奮発して百五十円の碁盤を買った。この話を聞いてある意地の悪い男が、一つその碁盤に疵をつけて弱らしてやろうというので早速出かけて行って一局所望した。すると木堂が書生に運ばせたのは極めて粗末な碁盤だった。そこで百五十円ので願おうじゃないかというと「折角じゃが、あれは初段以上の人でなけりゃ出さない」と澄ましたものであった、という。
 我が家には骨董市で求めた「木翁意匠碁器」と箱書きのある塗りの碁笥(本因坊型に近い)があり、日向蛤が収まっている。木堂と関係あるのか。懇意にしている碁盤屋さんにも聞いてみたが、その辺のところはわからなかった。骨董屋通いで日向の蛤をだいぶ見たせいか、今では日向産とメキシコ産蛤は容易に見分けがつく。
 以前、骨董市で日向の柾盤と35号の日向蛤をセットで12万ほどで買った。その盤を鑑定してもらうと「バブル期ならば優に400万はしましたね」といわれた。蛤碁石は規定の180個に25個ほど足りなかった。その分を碁盤屋さんを通して補充したら1個5000円。補充分のほうが盤石セットよりも高かったという笑えない話もある。その後、湯布院あたりを旅してとある骨董屋に入ると、端物碁石と称して正規品から弾かれたものを売っていた。店主と交渉して10個を1万円で買った。見た目も美しく、素人目にはなぜはじかれたのか分からない。
 宵曲の随筆「団扇の画」(岩波文庫)にも「碁」という項がある。「碁盤といふものは子供の時から家にあったが、遂に碁を打つことを習わなかったので、黒白を弁ぜざること今も変りがない。碁を知らぬ人間が碁の話をするなども、夏の日永の一興であろう」としたうえで、「古今著聞集」や家康、本因坊秀哉などのエピソードを紹介している。たとえ碁は知らなくても、いかに幅広く文献を読み漁っていたかの証左だろう。同じ本の「別天地」という項には、碁の別名「爛柯」の由来も取り上げている。
 同じ宵曲の「子規居士の周囲」(岩波文庫)には戯道という人の次の句が出てくる。
  琴棋書画中に水仙梅の花
 琴棋書画は古来、君子のたしなみとされたもの。「棋」が碁であることは言うまでもない。
 また元禄期の有名ならざる俳人を広く紹介した「古句を観る」(岩波文庫)には喜重という人の碁を読んだ句があった。
  短夜の碁を打分の名残かな
 これなど、打ち分けで決着がつかず、夜通し打ったのだろうか。先の甲東にもこんなことがあったのかもしれない。
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