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閑居老人独語㉟

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04 /30 2020
 今日もネット上では種々の企画がある。
 まずは「井山研究会」。通称井山研。有望な若手が総出演する早碁対局だ。
 囲碁将棋チャンネルが運営する囲碁プレミアム在宅応援特別企画「いまこそ自宅でたっぷり囲碁」では、過去のいろいろな番組が視聴できる。仲邑菫特集や井山七冠達成記念番組などが無料で見られる。
 さらに明日からはGW特別企画「プロ・アマガチンコ対決」も始まる。一対一の対局であり、ふだんの指導碁に見られるお行儀のよい手は打たない勝負の置き碁が見られる。まずはアマ六段の5子局とか。これは面白そうだ。

 我が家の前を流れる、幅1メートルほどの水路に鴨が二羽ゆったりと泳いでいた。ここまで鴨が来たのを目にしたのは初めて。水路の水がだいぶ増えたためにやってきたものらしい。例によって鴨の種類はわからない。たぶんマガモかな。
 近づくと、何も危害を加えたわけではないのに、バサバサッと大きく羽を震わせて突然飛び立ち、住宅の屋根より高く飛んでいってしまった。ふだんは悠々と泳いでいる姿だったり、川端をちょこちょこ歩いている姿しか見てないものだから、大空を飛ぶ姿に驚いたのだ。
 「平家物語」富士川の合戦で平家の軍勢が「(水鳥が)ただ一度にぱつと立ちける羽音の、大風、雷のやうに聞えければ」驚いて退却したという話が思い浮かぶ。
 動植物とのわが付き合いはいささか本末転倒気味で、どうしても歌が先にきてしまう。鴨といえば、まず大津皇子だ。
  ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
 謀反の罪で捕らえられた24歳の大津皇子が、磐余の池に鳴いている鴨を、今日を限りに見て死んでいくのかという、辞世歌と呼ばれている一首である。 
 また万葉集巻九にはこんな旋頭歌があった。
  埼玉(さきたま)の小埼の沼に鴨そ翼霧(はねき)る己が尾に降り置ける霜を払ふとにあらし
 翼霧るとは水鳥が羽ばたき、しぶきを霧のように立てることをいう。おそらく、眼前の景ではなく、鴨の羽ばたく音を聞いて「霜を払ふとにあらし」と推定しているのだろう。
 小埼沼の跡とされる行田市埼玉(さきたま)の地には宝暦年間に建てれられた歌碑が残る。万葉東歌にもう一首「埼玉」の歌がある。
  埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね
 この2首の万葉歌のほかに、わが行田には、このたび国の特別史跡に指定された埼玉古墳群もある。本来「埼玉県名発祥の地」なのだ。
 蛇足だが、埼玉の語源は「幸魂」とか。幸は「ま幸(さき)くあらばまた還り見む」とあるごとく「さき」だ。埼玉新聞本社の玄関ロビーには確か金田石城さんの雄渾な「幸魂」の書が掛かっていたなあ。「さきたま」が「さいたま」となったのは音便変化。
 今日もまた予定外のところに着地してしまった。本当は黄砂のことに触れたかったのに。
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04 /29 2020
 県内のアマ囲碁大会が行われなくなってすでに2か月半。新聞の囲碁欄に掲載する棋譜不足は深刻な状況にある。埼玉新聞の掲載予定棋譜は5月いっぱいまで。
 今日は福岡解説者と6月以降の方向性を検討した。結論はひとつ。埼玉囲碁史を彩った節目の棋譜を掘り起こし、新たな眼で再現していくこと、これしかなさそうだということになった。幸い「埼玉戦後アマ囲碁史」(日本棋院埼玉県支部連合会編、埼玉新聞社刊)に節目の重要棋譜はほとんど掲載されている。改めて埼玉の長い囲碁史に目を向ける好機ともいえる。
 将棋欄はすでに先週からその形になっている。それが意外にも新鮮に感じられたことは先にも述べた。テレビ番組も、「3密」を避けるために新たな収録は行わず、プレイバック企画で対応しているケースが目立つようになってきた。いいとこ取りの再編集はそれなりに懐かしい。
 先に「囲碁 語園」探しのところで触れた、囲碁・将棋の専門店「アカシヤ書店」は現在、営業自粛要請を受けて休業しているが、「このままだと潰れてしまうので、ネットでの注文には対処しています」とのことだ。
 もう一つ、先に「芝野虎丸の軌跡」という新刊書を紹介した。それを見て「さっそくネットで注文しましたよ」というお便りをいただいた。このブログ情報がすこしでもお役に立てればうれしいですね。

 一昨日、初めて燕の飛来を確認した。また見たくて、散歩の足をふたたび見沼代用水まで延ばした。この前は水面すれすれに旋回していた。だが、今日は見えない。
 その代わり、満々と水をたたえた流れの中に、今まで見かけなかった水鳥を見た。もとより鳥の名はわからない。親鳥と思しき二羽は背中が黒く、わき腹が白い。後ろを三羽の雛が流れに乗って泳いでいる。というよりもただ浮いている感じ。親鳥が突如勢いよく水中に潜る。雛もやや遅れて一斉に反動をつけて逆立ちするような形で潜る。しばらく水面を見つめていると、とんでもないところに浮かび上がる。
 とっさに思いついた。もしかしたらカイツブリではないかと。その水鳥を、鳥として知っているのではない。
 万葉集東歌にある次の歌が浮かんだのだ。
  鳰(にほ)鳥の葛飾(かづしか)早稲を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも
 この鳰鳥がカイツブリだということは承知していた。「鳰鳥の」は枕詞で、葛飾(かづしか)にかかる。鳰鳥は「潜(かづ)く=潜る」から同音の「かづしか」にかけたのだ。「鳰鳥の潜く池水こころあらば…」という歌もある。
 帰宅してネットでカイツブリの画像をチェックした。羽色も姿も間違いなさそうだ。説明文には「潜水は大得意。水中の小魚を食べる。夏のはじめ、綿毛のようなかわいいヒナを連れて泳いでいる」とある。
 ところで、この歌の葛飾とは何処なのか。葛飾の地名は今も埼玉・千葉・東京に残る。万葉の時代にも、早稲米を産する現在の江戸川一帯を広く葛飾と称したのだろう。
 三郷市にはこの歌を刻した歌碑がある。ほかに流山市、野田市にも歌碑が建っているという。その中で三郷市はいち早くカイツブリを市の鳥に指定した。さらに「かいちゃん」「つぶちゃん」というマスコットキャラクターまで作っている。
 カイツブリは滋賀県の県鳥でもある。琵琶湖の古名「鳰の海」=水鳥の潜る海に由来している。同県出身の「鳰の湖」という四股名の現役力士もいるらしい。
 また琵琶湖は万葉集では「近江の海」と称された。柿本人麻呂の次の名歌はよく知られている。
  近江の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ
 近江の国の湖だから近江の海。近江は「淡海(あはうみ)」に由来する。afaumi(あはうみ)がafumi(あふみ)となるのは、日本語は母音の連続を嫌う特性があるからだ。なお、古代の「は」はfaと発音されたらしい。荒磯(あらいそ)=araisoはariso(ありそ)と読まれる。現代語でもこの法則は話し言葉の中に生きている。「このあいだ」konoahida」が「こないだ」konaidaとなるように。
 ではなぜ近江という表記になるのか。淡海とは読んで字のごとく淡水の海=湖をいう。古く、よく知られた淡海が二つ認識されていたため、「近つ淡海」=琵琶湖と、「遠つ淡海」=浜名湖を区別した。後に、近い方は近江(あふみ)、遠い方は遠江(とほたふみ)と呼ばれるようになった。
 ちなみに「近つ」「遠つ」の「つ」は古代の格助詞。現在の「の」にあたる。「つ」の痕跡は「目(ま)つ毛」という言葉に残る。まつげとはもともとは3語。目・の・毛なのだ。目を「ま」と読むのも古語だが、現代語の中にもいろいろ痕跡が残っている。まぶた、まなかい、まのあたり等々。
 カイツブリから始まり、予期せぬところに着地してしまった。

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04 /28 2020
 今日は埼玉新聞の囲碁欄に野中優希ちゃんの「詰碁弁当」の写真が載っていましたよ。弁当箱を開けると白、黒の石を食材でかたどった詰碁が描かれています。食べてしまうのがもったいないような。
 昨日の世界メジャー棋戦「第四回夢百合杯」の準々決勝に一力八段が登場しましたが、中国の謝八段に敗れました。この対局は3月に予定されていたものが延期され、今回初のネット対局となったもの。

 新型コロナウイルスの影響で、埼玉県でも学校の休校措置が5月末まで延期されるようだ。今朝の新聞に8歳の子どもの投稿句が載っていた。
  弟は学校知らない1年生
 悲しすぎますね。
 図書館が閉館になっている現在、手元の本を引っ張り出して読むしかない。ここ3ヶ月ほどで積読本の100分の1ぐらいは消化できたかな。その意味ではありがたい自粛生活ではある。コロナさえ心配なければ―この文言、何度記してきたかな。
 長谷川櫂の「和の思想」、面白かった。自分なりに読み取ったことを要約してみる。
 「和」といえば、多くの人が連想するのは和風、和食、和服、和菓子等だろう。いわゆる日本的なものがイメージされる。
 だが、本来「和」という言葉は対立するもの、異質なものを調和させるという意味だ。本の副題も「異質なものを共存させる力」となっていた。中国の文字である漢字を取り入れ、さらにそこから「仮名(かな)」を作り出した例などは異質なものを共存させた見事な結果である。
 「徒然草」の「家の作りやうは夏をむねとすべし。…造作は用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ…」の引用から展開する、日本人が生活や文化の面で「間」を大切にしてきたという考察も刺激的だ。「用なきところ」=間は、エアコンのない時代に、この蒸し暑い島国で夏を涼しく快適に過ごすためになくてはならないものだった。間が重視されるのは家の建て方ばかりではない。 
 間は絵画でいえば余白。中国や西洋の絵画には、等伯の「松林図屏風」のように豊かな余白が語りかけるなんて図式はありえないだろう。柿右衛門の磁器も「余白の美」だ。
 かように間を大事にしてきた日本人の生活の中には「間」を使った多くの言葉が息づいている。
 間を上手に使えば「間に合う」「間がいい」となり、使い方を誤れば「間違い」、間に締まりがなければ「間延び」、間を読めなければ「間抜け」になってしまう。
 人と人のあいさつにしても、欧米人は握手とかハグとか密着型である。それに対し日本人は離れてお辞儀する。
 間の使い方はこの国のもっとも基本的な掟であり、日本文化はまさに「間の文化」ということができよう。
 こんな例示もなされている。
 「早い話、互いに意見の異なる二人を狭い部屋に押し込めておけば喧嘩になるだろう。しかし、二人のあいだに十分な間をとってやれば、互いに共存できるはずだ。狭い通路に一度に大勢の人々が殺到すれば、たちまち身動きがとれなくなってパニックに陥ってしまうが、一人ずつ間遠に通してやれば何の問題も起こらない」
 まさにソーシャルディスタンスではないか。

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04 /27 2020
 今週の埼玉新聞囲碁欄は女流名人戦の準決勝、決勝。小学1年生(当時)が準決勝に進出し、大会を盛り上げてくれた。囲碁欄初の試みとして、とっておきの写真も掲載される。
 昨日、夏の高校総合体育大会(インターハイ)中止が決定された。そうなると文化部のインターハイとも呼ばれる高校総合文化祭の開催も危ぶまれる。5月10日に予定されていた県の最終選考会はすでに中止が決まっている。
 昨日のNHK囲碁フォーカスの囲碁川柳コーナーで「老楽の鶴の巣ごもり亀の甲」という投稿句が紹介されていた。「老楽」は老いの楽しみだろう。字だけ見ると老いらくの恋を連想してしまうが。「鶴の巣ごもり」「亀の甲」はもちろん囲碁用語。思えば、動物名の入った囲碁用語ってずいぶんあるんですね。猿すべり(英語ではモンキ-ジャンプというそうな)、馬の顔、犬の顔、狸の腹鼓、鼬の腹づけ等々。
 つづく囲碁トーナメントを見て驚いたことがある。42歳だという中野泰宏九段を解説者が「ベテラン」と称していたことだ。アマ碁界をずっと見ているこちらの認識では30歳ぐらいまでを若手、30代、40代を中堅、還暦すぎをベテランというイメージでとらえていたものだから。それだけプロ碁界の世代交代が激しいということなのだろう。そういえば、趙治勲の名もなく、還暦を過ぎたばかりの小林覚九段あたりが最年長と思われる、そんな時代になっているのですね。
 現埼玉碁界も主役は10代、20代だ。昨年の三大棋戦を制したのはすべて学生だった。

 すっかり葉桜となった桜並木で小鳥たちのさえずりを聞く。ときどき、こちらの枝からあちらの枝へと飛び移る。雀よりはかなり大きい。情けないことにまったく名前がわからない。植物でも小鳥でも名前がわかればなんとなく豊かな気分になれるのにね。ふだんは見かけない小鳥たちがこんなにいることに気づいたのも閑居の副産物だ。
 そもそも、こちとら見分けがつくのは雀、燕、鳩、烏、鷺ぐらい。鶯は鳴き声を聞けばわかるが、姿だけではわからないかもしれない。東京では鶯の声を聞かなくなってもう20年になるという。我が家の周辺でもまず聞かない。
 昨日の朝日俳壇に燕を詠んだ二句があった。
  人の世はうろうろ燕すいすい
  憂鬱のただなか燕来てゐたり
 人の世は憂鬱のただなかで、うろうろするばかりだが、燕は何事もないかのようにやってきて、いつもと変わらずすいすい飛び回る。今年はまだ燕を見てないなあ。
 ――と書いた後、今日の散歩で初めて燕を見た。いつもの武蔵水路沿いではなく、流れ豊かな見沼代用水沿いに足を延ばすと、何羽かの燕が川面を低くすいすいと旋回していた。時には水面にくちばしを入れる。何かの虫を捕えているのだろうか。
 「燕が低く飛ぶと雨」という天気のことわざがある。今日の天気予報は確かに午後から傘マーク。このことわざは信憑性があるらしい。というのは、低気圧が近づいてくると燕の餌となる羽虫が湿気を帯びて高く飛べなくなるため、その虫を飛びながら捕らえる燕も低空になるという原理に裏付けられているからだ。
 「うろうろ」で思い出すことがあった。漱石の「明暗」には「廊下を烏鷺々々歩行(ある)いているうちに」という表記がある。漱石の当て字はつとに有名だが、これは感じが出ている。その辺を半藤さんは次のように語る。
 「黒いカラスと白い鷺、これが入りまじって動いていれば、まさしくウロツク感じがする。いや、囲碁をかこむことを烏鷺を戦わせるという。白石と黒石が切ったり、つながったり、這ったり、こすんだり、大乱戦ともなると、盤上つぎの一手をきめかねてウロウロする。なるほどなァと感服するばかり」(「漱石俳句探偵帖」)

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04 /26 2020
 さいたま市から、例年5月中旬に行っているねんりんピック実行委員会を今年に限って書面上で行うという通知が来た。これもやむを得ないか。
 今日もネット上ではいろいろな研究会対局が行われているようだ。今朝届いた「週刊碁」にもネット対局の棋譜がたくさん載っている。井山の残念譜も含めて。
 碁盤を挟んでの実戦機会はまずなくなってしまったが、並べる棋譜には事欠かない。
 
 もうずいぶん前になるが、たしか「日曜日昼は父さんテレビの碁」という川柳があった。コロナ以前の通常の生活リズムならば日曜日の昼にテレビの碁を見られることはめったになかった。今は毎週見られる。いいのだか、悪いのだか…。
 花見の季節は疾うに過ぎたが、昨日書き残した「碁打の花見」に触れたい。
 作者は野々口立圃。俳人であり、俳画の祖といわれる人物である。碁もたしなみ、本因坊道策に5子で打った棋譜が残っている。その立圃ならではの俳諧詩とでもいうべきものが「碁打の花見」だ。
 「きさらぎ中頃、四方の花ざかりなりとて京中の男女老いたるも若きもいさみあへる」と筆を起こし、「我も友と誘はれ」出かけたところ、「我より先立ちていづくとも知らぬ人弐人、心しづかに…打ち語らひゆけり。ひとりは色白なる男、ひとりは色黒き人なり」。その二人が句を詠み合う。これらの句作を聞くに「皆碁の手の詞なり」と記されている。途中の文を省いて句の一部だけを連ねる。
  花によき所をとるや先手後手(黒)
  遊山する地をやぶられて花の陰(白)
  児や花のぞき手もがなまくの内(黒)
  花見にはせめあひなれや順の舞(白)
  中手こそならぬ花見のまどゐの場(黒)
  手をうつをしらざるは何花の友(白)
  見おとしをせぬや並木の花ざかり(黒)
 句としては無理筋っぽいところもあるが、碁をよく知る立圃ならではの戯れである。しかし、先に紹介した「江戸俳画紀行」も然り、「立圃の側からの伝記に碁とのかかわりを記しているものは未見である」。(「囲碁 語園」)

 

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04 /25 2020
 もう2か月以上アマ囲碁大会は行われていない。もちろん将棋も。
 アマ碁、アマ将棋掲載の埼玉新聞もピンチだ。今週の将棋欄はプレイバック企画で対応している。今掲載されているのは半世紀以上前のもの。それもかえって新鮮かもしれない。
 囲碁欄の予定はあと2週分、女流名人戦と女性大会の碁を掲載する予定で、5月17日まではもつ。そのあとは、採譜はしたものの諸般の事情で掲載を見送ったものを復活させる予定。それもストックは1週分だけ。あとはやはりプレイバック企画になりそうだ。
 可能性として一番最初に棋譜が手に入りそうなのが6月28日に予定されている少年少女県代表選抜戦。とはいえ、これとてまったく保障の限りではない。

 「独語」は今日がなんと30回目。閑居のつれづれに、たまたま「閑居老人独語」と題して思いを述べたのが1か月前。当初は継続の予定などないものだから1回目のものは①とは記してない。
 ひとたび書いてみると、材料探しが楽しくなった。その時間はたっぷりある。もちろん、自分の趣味趣向、関心だけで言葉を連ねているのだから、人さまの関心とは重ならないだろう。いわば自らの慰めにすぎない。
 それでも、小人閑居ゆえにパチンコ屋へ行くよりもよしとしたものか。「不善」はもとより「善」もなしてない、曜日も定かに自覚できない日々がつづく。
 今日は確と葉桜を眺めながら歩いたが、もはや散り残りの花びらは見つけられなかった。思えば、わが散歩コースの桜並木に初めて一輪の開花を認めたのは3月15日だった。短い命の代名詞のような花(主として染井吉野)とて、咲き始めから咲き終わりまで40日もあるのだなあと変に感心したものだ。閑居ゆえに気づいたことでもある。
 最近、改めて「囲碁 語園」をぱらぱらとめくっていると、野々口立圃の「碁打の花見」という文章に出っくわした。
 その内容はあとにして、まずこの本について触れておこう。
 2009年、大阪商業大学アミューズメント研究叢書として発行されたものである。上下2巻に分かれ、計1、820ページ。内容は古代から江戸末期までの日本の文芸等に語られてきた囲碁に関わる条を拾いだしたもの。一人の著者が十数年を費やしてやり遂げたという。気の遠くなりそうな調査、執筆ではないか。
 それなのに定価は2冊で5、000円。考えられないほど安い。大阪商大といえば、囲碁界に理解ある谷岡学長が、プロの十段戦や女流名人戦の会場を提供してくださっているし、春の高校選抜大会の会場も提供してくださっている。それらと軌を一にする囲碁支援事業なのかもしれない。
 その本の告知を囲碁新聞か何かで見て、さっそく日本棋院の売店に出かけた。探しても見当たらない。尋ねると「昨日、○○先生が買っていかれましたが、ありませんでしたか」との返事。一歩遅かったのだ。それから八重洲にも回り、大型書店も回る。どこにもない。
 版元にも電話をかける。
 「どこの本屋にもないんですが、再版の予定はないんですか」
 「あれはもともと赤字覚悟の出版。その予定はありません。どうしてもご覧になりたかったら図書館で見てください」
 こうなると釣り逃した魚への思いがやみがたくなる。資料としてぜひ手元に置いておきたいのだ。
 神田の古本屋を巡る。どこにもない。囲碁・将棋本を主に扱っているアカシヤ書店に行く。囲碁史会の会員でもある店主に尋ねる。
 「私は一部持っていますが、店には出しません」とのつれない返事。まるで骨董屋の言い草のようだ。
 そこで「入ったら連絡願います」と頼みおいて店を後にする。その後、何度立ち寄っても「ありませんねえ」と返事は同じ。
 半年ほど経った頃に連絡をいただいた。「お探しの本、入りましたが高いですよ」が第一声。聞けば18,000円だという。定価の3、6倍だ。それでも、こればかりは買うしかない。定価で買えなかったのは悔しいが、もともとの定価だって本来ならこのくらいするものだろうと思うことにした。
 江戸の川柳、狂歌にも当然のことながら多くのページを費やしている。これでもかと思うほど碁を詠んだ句歌が掲載されている。見ているだけで飽きない。
 本を入手するいきさつだけで長くなってしまった。「碁打の花見」は後にしよう。
 
 昨日、マスクの川柳に触れたので今日もマスクの川柳で閉じたい。
  布マスク使う前にも洗濯し
  本当は大きなマスクしたいのに
 アベノマスクは小さいとか、使う前にゴミだかカビだかついているとか評判が悪い。それでも言い出しっぺは意地でも小さな布マスクを着けている。
 川柳とはもともと風雅の趣を詠む俳句―これとてもとは俳諧だが―とは違って、人事の世界に目をつけ、人情、風流を活写して「滑稽」「風刺」を旨とするもの。だからこそ面白い。

閑居老人独語㉙

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04 /24 2020
 昨日は「夢の5対5」中継を見ました。結果は井山チームが3―2で勝利。おおかたの予想もこんなところだったでしょうか。羽根碁聖の大石も井山棋聖の大石も取られてしまいましたね。捨て石でもフリカワリでもなく井山の大石が取られるなんて、まず見ませんよね。それだけ面白い碁を見せてくれたということですか。
 囲碁棋士も、小池都知事の「ステイ・ホーム」に合わせるような形で、小林理事長、武宮棋士会長らが「ステイ・ホーム 家で囲碁を楽しもう!」との動画を寄せています。
 もう一つ、星野源さんの「うちで踊ろう」とのネット上の呼びかけに囲碁棋士も応えている。白黒の碁石を音符に見立てた背景の中に置かれた碁盤に石を打ち下ろす音がリズムを奏でる。
 そういえば、犬を抱いた首相が優雅にお茶を飲んでいる動画は見なくなったなあ。見たくもないけど。
 
 首相の便乗動画がネット上で炎上したことの分析が何日か前の新聞に載っていた。その記事は「動画の中の首相は庶民の生活を見ようとしていなかった。在宅勤務できず、外で働かざるを得ない人を見捨てるという決意表明に見えた」から始まる。さらに炎上を増幅したのは、外出自粛中もみんなで音楽を続けようという星野さんの文脈を無視したからという点にある。「歌わない」「踊らない」「自分の言葉で語らない」という、ないない尽くしなのだ。
 それとは別に当初からずっとひっかかるものがあった。政府の専門家会議の副座長とやらの発言だ。失礼ながらホントに専門家なのかいなという思いすら抱いてしまう。発言に発信力がないし、政府寄りの発言と自己保身的な発言に終始しているように見えて仕方ない。都知事の発信力とは雲泥の差がある。
  アベノよりコイケマスクが欲しくなり
 確かにそう思う。大きいし、カラフルだ。でも今朝の川柳は単にマスクのことを言っているのではないようも読める。
 動画とマスクは世にいう悪評3点セットの中の二つなんだよな。
 もうひとつ、「池上彰の新聞ななめ読み」も面白かった。17日の首相記者会見で、不評のアベノマスクについて朝日の記者から質問を受けた際、朝日新聞ショップで布マスクを2枚3、300円で売っているではないかと反撃したという。でも、それは繊維のまち・泉大津市が町おこしのために制作しているものであり、もともと定価は3、300円。首相の発言だけ聞くと朝日が高値で売ってもうけているような印象を受けるが、首相も提唱している「地方創生」のための町おこしに協力したものだ、と結ばれている。
 新聞も、散歩・読書と並ぶ、雑文の種だ。なにしろ、いつもよりゆっくり目を通せるのだから。

閑居老人独語㉘

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04 /23 2020
 昨日の井山の決勝戦、残念でしたね。
 「夢の5対5」、昨日は1勝1敗でした。張栩が芝野に勝ち、許が山下に勝ちました。今日は羽根―村川、河野―井山、高尾―一力という組み合わせのようです。
 毎週水曜日の読売新聞夕刊「岡目八目」欄に、昨日まで4週連続で掲載された大澤完治さん(県連副会長)の文章のコピーをご本人から送っていただいた。第4回目は「現状の囲碁界に大変な危機感を抱いています」という内容だった。囲碁の普及推進のために「囲碁を学校教育の正課にすること」を訴えている。囲碁普及には「ミッション(使命感)」、「パッション(情熱)」、「ハイテンション(心意気)」の心が必要とのこと。「3密」ならぬ「3ション(語呂がよくないか)」だ! 最後は「今こそ囲碁界は「心」を一つにして、普及活動に奮起しなければなりません」と結ばれていた。―今こそ世界は心を一つにして新型コロナウイルス撲滅のために奮起しなければなりません、という現状認識とオーバーラップする。
 もう一つ新情報です。今秋、岐阜県で開催される予定の「ねんりんピック岐阜2020」について連絡が来ました。「現時点では予定通り大会を開催し、参加申込期限を7月20日まで延長する」とのことです。いくら延長したからといって、県内では予選の見通しもまったく立っていません。本大会が予定通りできるのかを含め、心配がつづきますね。

 朝から雲一つない青空が広がっている。日差しも暖かく、柿の若葉を揺らす風も心地よい。
  少しだけマスクを取れば青い青い風の匂いがする四月です
 韓国出身のカン・ハンナさんの歌だ。
 青い風に誘われて、小さな菜園(主に妻が世話)に出かけた。玉ねぎの周りの雑草を抜き、里芋を植える。久しぶりの土の感触、かすかな草の匂い。平和な空間だ。
 昨日、最近目にすることが多くなったカタカナ言葉に触れた。
 今朝の「さきたま抄」には、今から約700年前の京都二条河原に掲示された落書、「この頃、都に流行るもの。夜討ち、強盗、偽綸旨…」にあやかり、緊急事態宣言が出されて人と人の接触が戒められている現状を「この頃、都に流行るもの。休校、自粛、テレワーク、デマ、クラスター、三つの密、ソーシャルディスタンス、ステイ・ホーム」。単なることば遊びではない。最後は、早く「終息」が流行ればいいのだが、と締めていた。 

閑居老人独語㉗

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04 /22 2020
 今日は、井山が決勝に進出しているネット世界戦「野狐人気囲碁争覇戦」の第3局が打たれる。1、2局とも半目決着。大接戦を演じている。井山の快挙を期待しよう。
 もう一つ、ネット上で今日から「夢の5対5」企画も始まる。今日から5月6日まで、日本棋院は幽玄の間を会員外にも無料公開するという。それにしても井山先生はどうするのかな。そうか井山の出番は明日か。
 さらにもう一つの話題があった。関西囲碁将棋記者クラブ賞の囲碁部門で村川大介十段の受賞が発表された。仲邑菫初段には特別賞も。

 午前中、好天に誘われ、散歩の足を延ばして見沼代用水沿いを歩く。菜の花が咲き乱れている。かっこいいヘルメットにサイクルウエアーのおじさん(か若者か)が追い抜いていく。人に会ったのはこれだけ。8000歩ほど歩いてしっとり(じっとり感もある―余談だが日本語のオノマトペは「さらさら」「ざらざら」の違いに見られるように概して清音は快感、濁音は不快感を表す)いい汗をかいた。
 田舎はいいなあ。「3密」とは無縁だ。
 3密は日本語の密閉・密集・密接だからすぐわかる。それにしてもコロナ騒動が始まってから、初めて聞くようなカタカナ言葉にずいぶんお目にかかったなあ。
 そもそも「新型コロナウイルス」の「新型」とは何ぞや。新型があるなら旧型もあるのだろうぐらいにしか思っていなかった。そこで少し調べてみてわかったことを記す。
 これまで人に感染するコロナウイルスは6種類が知られていた。いわゆる風邪の何パーセントかは4種のコロナウイルスによるもの。残りの2種が21世紀になってから騒がれたSARS(重症急性呼吸器症候群)とMERS(中東呼吸器症候群)。今回のは7つ目なのだそうだ。だから新型。
 そもそもコロナという名称はラテン語で王冠を表すcoronaに由来するとか。英語のcrownの語源でもある。そういえばテレビに映し出されるウイルスの電子顕微鏡写真は、表面にたくさん突起が見える形状が王冠のようにも見えますね。
 多くの人はご存知なのかもしれないが、自分は恥ずかしながらそんな基本も知らなかった。
 最近頻出するカタカナ言葉を列挙してみる。
 クラスター―感染のつながりがある患者の小集団
 オーバーシュート―感染者の爆発的増加、もともとは「度を越す」という意味で使われる金融・証券用語
 ロックダウン―都市封鎖
 ソーシャル・ディスタンス―社会的距離 あのウサイン・ボルトのソーシャル・ディスタンス動画は嫌みっぽくもあるが、あそび心としては拍手喝采ものだろう。
 ピークアウト―感染拡大が収束に向かうこと 少なくとも日本ではまだまだ全く見通せない。
 さらにテレワークとパンデミックという言葉についても新たに知るところが多かった。
 テレワークとは当初、テレホンワークかと思っていた。確か天声人語にもそんなことが書いてあった気がする。切り抜いて保管してあるつもりだったが、どこへ紛れ込んでしまったのか見つからない。
 テレ=離れたところ、ワーク=働く と分けられ、テレパシー(精神感応)、テレビジョン(テレビ)、テレスコープ(望遠鏡)等々、テレを冠した言葉も多いのだとか。自分はテレワークとは無縁と思っていたが、改めて考えてみると囲碁欄の原稿や棋譜をメール送信しているのも立派なテレワークかな。
 パンデミックについては3月30日付の埼玉新聞一面の「さきたま抄」に教えられた。パンは「pan」。「すべての」を意味する接頭語で、「汎」と訳される。パナソニックはパン+ソニック(音を意味する)。ほかにもパノラマやパントマイムもパンに因んでいるという。いま世界を揺るがせている「パンデミック」はパン+デモス(人々)が合わさり、伝染病の大流行を指している。
  掃除機を二度かけなおしてもまだ三時―ああ、実感
  幾万回試練くぐってホモサピエンス―7つめの新型コロナも乗り越えられる
 今朝の朝日川柳で締めくくろう。実にうまく世相を切り取っている。

閑居老人独語㉖

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04 /21 2020
 昨日で「平成生まれ世代別対抗戦」が終わった。優勝したのは3勝1敗の、井山率いるAチーム。一力率いるBチームと同星だったが、個人の勝ち数の差でわずかに上回った。
 一力―上野戦をユーチューブの動画で見た。NHK杯でも司会を務める星合志保二段が進行を受け持ち、謝依旻六段が解説。解説はテレワークだが「謝さんの解説、わかりやすい」と評判だった。碁そのものも面白かった。
 「思ひつくことみな古うなる」と横井也有に揶揄されそうだが、上野さんにも星合さんにも子ども時代の思い出がある。
 上野さんがまだ小1ぐらいだったか、日本棋院で行われていた「四都県対抗戦」に出てきたときのことだ。確か55人ほどの団体戦だった。東京―埼玉の対戦で、たまたま小1の上野さんと幼稚園年長の川口飛翔君が対戦した。「こんな小さい子どうしが打つんだ。面白そうだ」と採譜に向かったのはいいが、あまりにも着手が速く、ついに途中で諦めざるを得なかった。なにしろまったく手が止まらず、互いに間髪を入れずに打ち返すのだからお手上げだった。後年名を挙げた二人のことを思えば、棋譜を残せなかったのは痛恨事だ。四半世紀に及ぶアマ碁の観戦記者経験の中で、棋譜が採れなかったのは後にも先にもこの碁だけだ。
 星合さんは小学生のころ、お兄ちゃんの真吾君とともに、当時行われていた「北本ジュニア囲碁まつり」に東京から埼玉までよく参加してくれていた。昨夏お話ししたとき、その頃のことも、運営を担当していた筆者のことも覚えていてくれた。
 一力八段に指導碁を打っていただいたうえに色紙をいただいたことは前に記した。

  菫程な小さき人に生れたし
 もし碁を知る人にいきなりこの句を見せたら何と読むだろうか。
 「オレの碁、何年やっていても一向に強くならん。(仲邑)菫ちゃんほどの小さい人に生まれ替って一から出直せばきっと強くなれるだろうな」と再生願望を込めた希望の句に読めるかもしれない。
 句の作者は何を隠そう、漱石先生である。
 漱石は小品「文鳥」にも文鳥が餌の粟をのみこむ音を「菫ほどな小さい人が黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いて居るやうな気がする」と記していた。
 「俳人漱石」を書いた坪内稔典さんは先の句を漱石俳句ベスト3に選んでいる。
 ほかにも、碁と関係づけられるかなと自分で勝手に思って書きつけておいた句がある。
  負け菊をひとり見直す夕べかな
 「一茶俳句と遊ぶ」(半藤一利)の中に見出した。当時しきりに行われた菊合わせを詠んだ句だという。丹精を込めて養って大輪の花を咲かせた菊を、よしこれならばと意気込んで出品したものの、残念! 相手の菊のほうが勝っていた、といったところだろうか。
 この句の「菊」を「碁」に置き換えれば、誰もが一再ならず経験していることではないだろうか。
  ながながと川一筋や雪の原(凡兆)
 碁とはまったく関係ない。ただ、観戦記によく使われる「一本道」とはまさにこんな景と重なるのではないか。雪の白と川の黒も映像化できる。
  菜の花の中に小川のうねりかな(漱石)
 こちらも、曲折はあっても一本道のイメージ。色彩感豊かだ。

オオボケnaoちゃん

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